2020年8月3日月曜日

閉ざされたハッピー世界

「閉ざされた世界」 と聞くとどういうイメージを持ちますか?


2020年8月現在の東京は、都の外に出ることはなるべく控えるような自粛傾向があります。

これがもう少し進んで越境は禁止とかになり、東京都は閉ざされた世界と言えなくもありません。実際のところは、物資は都外から入ってくるし、ネットで確認すればそれ以外の地域に住む人たちも生活していることがわかります。
しかし、厳密には、それら全ての情報を個人が確認することは物理的には難しいです。

僕らが自分の目や耳で見える以外の範囲を実際に見たわけではありません。

僕らは、ユーラシア大陸が存在することを知っています。しかし、それは過去に知識として学んだことです。ネットにもそういった土地に住む人たちはいるし、地図でも確認できます。
とはいえ「今」自分がそれらの存在を確認したわけではありません。もしかしたらそれらはすべて誰かが意図的に配信した情報で、僕らは閉ざされた世界で、ありもしない外の世界を見せられているだけかもしれません。

実は発生したと言われる出来事は起きていない。もっと別のことが起きていたかもしれないが、それを知る必要はない。それらの情報は意図的に加工され、今知る世界こそ、全てなのだ、と認知させられるような。

…とかここまで書くと「そんな馬鹿な」「ディストピアものを見すぎだろう」とか感じる人もいるかと思います。そうだと思います。ただの例えですので、極端に書きました。

でも閉ざされた世界にいると、あたかも知った風になれる、という性質もあります。個人で考える範囲も目に見える範囲も狭くて済むからです。

自分の周囲、半径2メートルのことを知っていればいい。自己完結すればいい。手にする端末の情報は、言われなくてもやってきます。僕らはそこに意識が行きます。とりあえず来る情報に興味が無くても、ひとまずその情報を確認します(視界に入る時間が0.1秒でもです)。
差し当たり安全は確保されています。タップすれば食べ物はすぐそこまで届きます。ほしいものも届けてもらえる。友達の声を聞くこともできます。これは閉ざされた世界と言ってもいいのではないでしょうか。


「閉ざされた世界」というのは、空間的、距離的なこともありますが、まず個人の意識的なものを指すのではないかと思っています。


いつか自分の部屋の外が更地になっていたとしても、自分の部屋だけで喜怒哀楽や生活スタイルが完結すれば、それはそれで本人はハッピーなのかもしれません。
良い悪いをジャッジしたいわけではありません。自分もその世界にいるかも、と思うことが大事で、時折チェックしてみる、とかはアリだと思います。

2020年6月22日月曜日

モノを動かすのと配置するのと

一度そこにモノを配置すると、それを次に動かすためにはモノを配置したとき以上にエネルギーを使うことがあります。

先日デスクを買い替えたのですが、それまで使っていた旧デスクは15年近く使っていたもので、数度の引っ越しの中で、常に自分の作業部屋に配置されていた家具でした。

旧デスク15年の途上で「そういえば新しいデスクにしなきゃなあ」と思ったことは何度かありましたが、そのたびに何らかの理由でで買い替えは延期されてきました。
モノを移動させることは、単なる位置的な移動だけではなく、僕の心理上で動かすためにも、それなりのエネルギーが必要だったと想像します。
15年の時を経て、ついに新デスクをお迎えしました。旧デスク今までありがとう。

モノの配置は、決まれば決まり続けます。バシっとなる感じです。「フィットする」という感じで、ぴったりはまると気持ちが良いものです。
はまってしまえば時間を飛び越えますね。別の例ですが築年数が何十年も経っているお家にお邪魔すると、玄関先に置いてあるような置物が「それ半世紀近く同じ場所に置いてるよ」みたいなこともありました。

だからいざ動かそうとなると、動かすというより「剥がす」みたいなイメージが僕の中ではあります。ちょっとへばりついているような感じで、そこから動いてしまうと、もう既に違う何かみたいです。だから、ちょっと気分を変えたいなと思ったら、模様替えをする人がいるのも理解できます。

「気の流れ」とかいいますが、モノを置いたり動かしたりすることで、それこそ空気の流れは変わるかもしれません。僕は「気」については分かりませんが、モノの配置がなにか継続的に人の気分に影響を与え続けるかもな、というのはちょっと分かる気もします。

今のデスクはとても「気」に入っているので、長いことフィットし続けるかもしれません。

2020年5月28日木曜日

技術の行方

映像にはたくさんの技術が投入されており、常に革新と共にあります。
同じツールを同じように使い続けるということは、人材の育成が停滞することも意味します。そういう場所では革新は起こりえません。

例えばある現場ではつい最近までAfterEffects CS6というバージョンが使われていました。これは10年以上も前のバージョンで、現在の最新のAfterEffectsのバージョンとは互換性がありません。もちろん使えるのであればいいし、そこから名作が生まれないわけではありません。映像の表現は更新されており、人々の映像に対する求める内容がどんどん変貌しているのです。

僕は新しいツールが好きです。ただ、技術は技術でしかなく、何か新しいことを常に追っている中で、こういう技術がどうも必要っぽいな、と人が考える流れが僕は自然だと思っています。

2020年4月13日月曜日

健康であれ

昨日は誕生日でした。フリーランス生活は8年目に突入しました。フリーランスでの業務開始は、2013年の2月からです。

お仕事もしています。ただ情勢的に先行き不明なところもあるので、どうなるかはわかりません。フリーになって風邪もほぼ無く、だいたい健康でいられたのが幸いです。名前に健の字があるので、できるだけ健康でいたいです。

体感的には心身の体調が少しバランスを崩している状態のほうが、創作力は上がるような気がします。どっちがいいんだろう、ということはなくええとこ取りしていきたいです。
とはいえ、家からあまり出られないのも不健康ですね。長くなるでしょうが、今の状況ができるだけ緩和されてほしいですね。

健康とは書きましたが、絵コンテをずっと描いていると、利き腕のほうの体の右側にやはり負担がかかりやすく、休憩をこまめに入れないとつらいですね。無意識に食いしばるためか顎も痛むのです。今後、もっと負担を減らすべく、段階的に作業時間を減らしていくよう実行していく必要がありそうです。

文章をうつためのキーボードでのタッチも何気に体の負担になっていると思います。そういえば昔のアニメとかでよくあったキーボードカチャカチャ表現は、何かシステムを制御している天才オペレーターみたいな表現で使われてましたが、今はもう使われてないんでしょうか。ブラインドタッチは今後不要になってくスキルだろうなとも思います。

2020年1月16日木曜日

度が過ぎるの度

これは創作に関する仕事をしているからこそ気をつけなきゃいかんのですが、
まずいろいろな出来事に対して、ドラマチックじゃない方に考える視野も持ちたいのです。

日ごろ目にする、自由さとか楽しさ、大変な出来事、悲劇、有能、奇跡、美談みたいなものを飾るような表現は、ちょっとバランス悪いような?そんな印象を受けることがあります。「度が過ぎている」みたいなものです。よく見かけませんか?なぜそんなに煽るんだろう?なぜそんなに感情を表に出さなきゃいけないんだろう。なぜ特定の誰かを悪者に仕立て上げないといけないんだろう?

「度」はたびたび、とか数量の様子とか、何か複数とか繰り返すとかそういうニュアンスの言葉のようですが、似たような毎日を度々繰り返していると、強めの刺激、つまりドラマチックを過度に欲するみたいなこともあるのかもしれません。それを繰り返していると、一見素朴で、大人しく、地味で、シンプルなものごとに対して価値がないと誤解してしまうこともあるんじゃないかなあ、って感じることはあります。