2017年11月7日火曜日

何となくの行動

絵コンテの仕事をしていると、キャラクターの動きを描く機会がとても多いです。

キャラクターが、なぜ、そういう動きをしたのか?
これらが説明できなければなりません。

例えば、テーブルの上にあるマグカップを持とうとしたキャラがいたとして、手をマグカップに近づけた段階で一瞬持つのを躊躇した、とします。

ピタッと間ができるときに、キャラは何かを考えたか?どういう意味があるか?

色んな理由が考えられますね。リアルであれば、「何となくの行動」ということもあるかもしれません。「何となく気が変わった」みたいなことはリアルであれば自然にありますよね。

しかし、創作においては、少なくともそれを描写する以上、何らかの答えを作り手は用意しておく必要があります。
それは作品を見る人(受け手)がいるからで、少なくとも受け手が腑に落ちる、かつ興味深い描写にしなければならないのです。
また、その人たちが情報を取得する上で妨げになってはいけません。

マグカップを持つのを一瞬だけ躊躇した、という行動は、その前後の時間軸できっと理由があるはずです。

行動を描くということは、連続性を描くということであり、ドラマは連続性を得て成立するのです。

2017年11月6日月曜日

完成と継続と

もう15年以上も前の話になってしまいますが、
大学でアニメサークルに所属して学んだ大事なことは、どんなに短い作品でも、まず「完成した!」という段階まで作ることです。

 そうすればまず「作品」として他人から認知され、評価をされる対象となります。
 作った作品が駄作か、凡作か、傑作か。そんなことは視聴してもらって評価をされるというプロセスを経ないと、わからないわけですね。


そりゃ当たり前やろ、という話なんですが、自主アニメ制作は、個人がやることが果てしなく多く、特に技術や機材の乏しい学生が作ろうとすると、必ずどこかで高い壁にぶつかるんです。
そこで、制作を止めてしまうことも、とても多いのです(自分もそういうことが何度もありました…)


自分が初めて作ったアニメは2002年で、25秒ほどのしりとりアニメです。
しりとりアニメとは、カットを繋ぐとき、作画で動きや形を変化させて表現し、繋いでゆく手法のアニメで、いわゆる習作扱いでした。
それと、同時上映でオリジナルの予告編。そこでキャラが1コマ作画で走るループアニメを初めて描きました。


その時の作品は合同上映会に提出し、感想コメントも貰えたことが嬉しくて、それが次の作品を作り続ける原動力にもなって、何とか今に至っている…という感じです。

2017年11月1日水曜日

出来事と言葉

言葉は、出来事をどう表現するかによって、伝わる側の認知の仕方が変貌していきます。


例えば、何か有名なテレビ番組等が終了したときなどに「ひとつの時代が終わった」という表現があります。

詳しい人からすれば、それだけ大きな出来事だと感じるかもしれないし、全く知らない人からすれば「ひとつの時代」という表現レベルのものがあった事すら知らないかもしれません。



別の例だと、無人ロケット発射などで、打ち上げが失敗に終わった時「この打ち上げは失敗に終わった」と表現されることがあります。

しかし、この発射に関わった人たちからすると、「次に繋ぐための成果があった」とも言えるでしょう。

外の人間からすると、そういった緻密な成果はなかなか見えないし理解は難しいものですね。


そんな感じで、出来事をどう表現するかによって、その伝わるイメージは全く異なります。
どちらが良いかというより、自分はどういう認識か?というのを探ってみると面白いかもしれません。

2017年10月28日土曜日

「無」を「有」と想像する。

これは例えばの話で
『僕は人から「ジャガイモは美味しいらしいよ」と勧められて食べることはあっても、勧められる前から好きになることはありません』


上記のたとえ話について少し話します。

よほどアレルギーとかでない限り、ジャガイモを食べたことのない人はそんなにはいないのでは、と想像します。
ただ、「ジャガイモを食べたことがない」を想像しなければ例文の意味を理解することは難しいかもしれません。


では、これを「Aさんの飼っているヤドカリは可愛いらしいよ」に変えてみるととどうでしょうか?
『僕は人から「Aさんの飼っているヤドカリは可愛いらしいよ」と勧められても、そのヤドカリを見る前から可愛いと認知することはありません』
となるでしょう(ヤドカリを食べるわけではありません)。
見る前から「可愛い」と認知することはできるかと言うと、できないと思います。

これらの内容から、例文は「人からどんだけ評判を聞いたとしても、最終的な判断は絶対に自分でする」という主旨と言うことはきっと理解して頂けるかと思います。


こういう風に、具体例を示されたとき、少しずつ自分の理解にしやすい具体例に置き換えて考えていけば、物事は少しずつ伝わりやすくなるかと思います。


想像とは、「無」を「有」であるかのように考える力であり、想像力は目の前の理解の谷を飛び越える力でもあります。

2017年10月26日木曜日

体験したストーリーの価値

例えば、有名な人のサインなどが入った本とかグッズがプレミアがついたりします。オークションなどで何万もの値段が付いたりしたことを見たことがある人もいるかもしれません。

僕はこれがよくわからなくて、サインとかは本人から直接頂いたというストーリー、体験込みで価値があるものだと思っています。

オークションでサイン色紙なんかがあったとしても、それは他人が体験したストーリーだから、自分にとってはあんまり価値はないんじゃないかなあ、と思うのです。


自分はある作家さんからサインを頂いたことがあり、それを、いつも自分の目に見える場所に飾っています。

自分の貴重な体験が関わるモノは、自分の傍に置いておくことで自分がちょっとだけ元気になったり、気持ちを正したりできるんです(バフがかかるみたいなものですね)。


そんなことを思う日もあります。


※資料的価値に関しては、また別です。
現存するものが極端に数が少ないとか、歴史的に意義があるとか、そういったものに対してプレミアがついたりするのは理解できます。

2017年10月23日月曜日

プロフィール更新


プロフィールページを更新しました。

熊本プロフィールページ

今回、お仕事に関してのテキストをたくさん追加しております。

宜しくお願いします!

2017年10月21日土曜日

「間」の話

コンテで大事なのは「間」だ。間は、面白さを感じるための多くを占める。

会話にしても、絵を見せるにしても、そこには時間が伴う。同じ3秒でも、前後の絵の意味合い、音楽の流れ方、SEのタイミングなどで、3秒が長いか、短いか、の感じ方が変わる。

その「感じ方」を的確に決定する作業が「間づくり」だ。

絵が綺麗でも、いい曲が流れていても、役者が素晴らしい演技をしていても、間がダメだとすべてがダメになる。
時間をつかさどるためには、間をつかさどることを日々気にする必要がある。

2017年10月20日金曜日

想像の色

ある出来事を見た時、自分の立っている位置によって見え方が変わります。

自分が「こうに違いない」と認識したものは、他人にとっては
ほぼ違うものとして認識している、そう考える領域は想像力です。

想像力の場所を置き換えることができれば、それは創造になり得ます。
伊達に同じ音をしていません。

昨日、未来から来たと思い込んでいる猫が僕を見て、「何故キミがここにいる、
キミはすでに昨日死んだはずだ」と僕に呼びかける、みたいなことだって想像ができます(デタラメな想像!)。

想像とは、いったんそうではないかと仮定する、みたいな要素があります。
客観的な視点を持つ、ということでもあります。
誰かのことを考えることができるようになるからです。

想像力を鍛えると面白いだけではなく、きっと優しくなれます。

2017年10月19日木曜日

自分の好きなことをやり続ける

お仕事に於いて、自分の好きなことをやり続けるというのは
とても大事なことです。

20年ぐらい前と比較すると、社会でシステム化が進み、
人がやらなくてもよい仕事が増えました。
トータルで、僕らがやらなくても良いことは増えました。

そうなると、人が暇になります。

恐らく今後、仕事とは、自分がやってて楽しいこと、やって得意なことは
ますます珍重され、「人らしい」という要素が強まると思われます。
「この人だからこそ」という要素です。

そんなときに、自分の仕事が好きなことで、かつ、得意な事だとしたら
それは結構良い感じなのではないでしょうか。

言葉の更新について

言葉の意味は時間を経て変わるもので、
「元々はAという意味だったが、その意味も、間違ってはいないが、どちらかというとBという意味に変貌しつつある」
みたいな単語は、新しい言葉を作っちゃってもいい気がする。
古い言葉をアップグレードせずに使っていると、どこかで無理が生じる(作業などはそうだ)

2017年9月7日木曜日

StoryboardPro

今日は講演のお知らせになります。
熊本は絵コンテを描くとき、StoryboardPro(Toon Boom社)というソフトを使っているのですが、今回、ダイキン工業様のご厚意により、10/11(水)に
StoryboardProのセミナーをやらせていただくことになりました。
自分でもびっくりです!

http://www.comtec.daikin.co.jp/event/201710-storyboard-sem.html


こんな感じで当日はソフトの一通りの使い方を、僕のオリジナルのキャラを
使って説明させて頂きます。

また、ワークフローに絡めたお話もできるかと思います。
ちょっとでも興味がある方は、是非ご参加頂けたら幸いです。

2017年8月17日木曜日

想像からの事実の想像は事実とは異なる

例えば、A,Bという並びの文字があれば、「その次にはCがくるだろう」と考えることはあると思う。
そう答える根拠は、僕らに馴染があるアルファベットが、A、B、C…の順序であるからで、A,Bの列がそれを示唆しているからである。

しかし、実際のところ、ルールがあるわけではないので「猫」が来る可能性もあるし「ケ」が来る可能性もある。もっと言えば、文字ではないかもしれない。「C」が来ることは誰も保証してくれない。

現実でもこのCを勝手に想像して、さらに全体をABCだと勝手に決めつけるような状況を見かける。「A,Bが来たから、当然次はCだ、つまり事実はABCなのだ」と勝手に自分の想像の上で都合よく事実を想像してしまうのは、日常でもちょこちょこありそうです。

2017年8月4日金曜日

まぜることば

言葉は難しい。言葉の選択によって、伝わり方は変化する。

例えば「混ざる」という意味を伝えたいとき、

「混入」と使うとする。「本来混ざってはいけない場所に何か異物が混ざってしまった」というニュアンスがあるかもしれない。意図しない混ざり方な感じがする。

「混成」とするとどうだろう。これは混ざったうえで成る、という意味合いになり、混入のような意味よりは、成の字が強めに残る雰囲気にも聞こえる。

「合成」と使うとどうか。これだと、何か複数のものが
合わさって新しく何かに成る。の意味が強まる。ただ
「混」というよりは、元々しっかりと形があるものがさらに結合し、別な何かに変化したという過程を示唆する雰囲気が強いイメージは与えるかもしれない。

「混合」ではどうだろうか、混じって合わさる感じだから、
形が完全ではないものが集まって、合う、という雰囲気を感じるので、冷静な表現とも言えるかもしれない。

以上のように言葉があればそれだけ意味があり、ニュアンスも異なってくる。
「混ざる」だと、意図的ではない雰囲気にも聞こえるので、「混入」とかが合うのかもしれない。それにしても、漢字が持つ言葉のイメージって強いですね。
言葉の伝わり方の違いでした。

2017年8月3日木曜日

つや姫

僕は白米はつや姫を買っている。つや姫は山形の素晴らしいお米だ。食感がもっちりしていてボリューム感があって、とても美味しい。
美味しいお米を食べると、毎日ちょっとずつラッキーな気分になれるぞ!

2017年7月27日木曜日

楽の創出

特に創作において、
「ツールは人が楽になるためにあるものなので、使ったら便利だよ」
というのが僕の基本的な思考です。
楽で得た時間の貯蓄を別な方面に使えばいい。

2017年7月7日金曜日

安全の維持

日本は安全、という言葉を聞くことがある。
それは、多くの人の知恵や努力によって、獲得された状態だ。
安全ではない状態が本来自然だ。
安全はほったらかしにするとどんどん質が低下して、
すぐに安全ではない状態になる。
安全とは得難い状態だ。決して「当たり前」のものではない。
もし「安全が当たり前のように見える」のだとしたら、
あなたが知らない場所で、多くの人の尽力の上で
成り立っている状態なのだ。

2017年6月26日月曜日

足らずを積む

-1に-1を足すと-2になる。不足同士を足せば不足は増える。

僕らは毎日何かを得て生きている。
しかし、中には得られなかったモノもあるはずだ。
得られなかったモノを見ることは難しい。得られなかったからこそ「そこには無い」のであるが、実際は得られなかった事実はカウントされ、蓄積されている。

だから「ある」とも言える。-2である。
例えば、「毎日コツコツと勉強した」は目に見えやすいので、結果に結びつけば「あの時しっかりと勉強したからな」と振り返ることもできるだろう。

一方、毎日全く勉強をしなかった場合も、結果は訪れる。この場合「あの時しっかりと勉強しなかったからな」とは言わない。「あの時少しでも勉強をしていれば…」となるケースが多いだろう。
この言葉が出るときは、結果は良くなかったのかもしれない。それでも「少しでも」と認知できているので、自分が不足だったことをちょっとは考えている。この場合は「良い方向に向かうといいね」と省みるだろう。

「勉強をしていなかったことすら自覚できていない」となると厳しい。不足は目に見えづらいので反省がしづらい。認識が難しいのだ。-2が見えていない。「無いものを見る」のは難しい。なんだか禅問答みたいね。

…と言い、今日も僕は知らぬ間に蓄積された、自身の不足を振り返るのであった。

2017年6月7日水曜日

ちかくに行くという知覚

よく若者が〇〇から離れている、というニュースがある。

これわざとなんじゃないか?というぐらい定型文として使われている。車、日本酒、タバコ、旅行、パチンコ…。
そのうち「若者の若者離れ」みたいに言われちゃうんじゃないかというぐらいだ(もうあるかも)

ところで、「離れ」と言うからには、過去に若者たちがそれらにくっついていた事実があったのか、と言われれば、そういうことではない。

簡単に言うと「離れ」とは、「昔の」若者は興味があったけど「今の」若者は興味がない。ってことだ。つまり、比較する若者が異なることになる。それって厳密には離れてないのではないか。

たぶん、興味の対象について、「今の」若者は最初から興味がない。
離れているのではなく、そもそも近づいていない。もしかしたら若者からしたら、興味がないことすら気づいていないレベルなのかもしれない。

この「離れ」を使っているのは「昔」若者だった人たちが「今の」若者たちに向けて使っている言葉だと想像できる。ずいぶん勝手な日本語に聞こえる。

対象が商品やサービスなのだとしたら、提供する側は、若者世代の取り込みに失敗していることになる。離れているのは果たしてどっちなのだろう?

2017年5月29日月曜日

広大な空白

今日はパッと思ったことを推敲せず書きます。

多くの人たちは遅刻せず会社行く。あれだけでも僕は十分すぎるぐらい偉い!って思うんです。僕が会社員の頃は10時出社で、出社していたのは大抵9時55分でした…。
何か自分の中での厳しいことを守り続けるって大事なことだし、それは人の信頼にもつながるのですが、だからといって、目標を厳しく縛ってしまうことは、必ずしも良いことばかりとは限らないと思います。
今いる場所からゴールを定義し過ぎてしまうと、そのスキマが「広大な土地」だったのが「ギャップ」へと変貌する。そうなると負担になるかもしれない。
バランス大事、楽に行きましょ。

2017年5月23日火曜日

「いいあんばい」

Twitterで、僕は「まあまあ健康であれば上出来だ」と書いた。

僕の中で日常大事にしているのは「いいあんばい」である。丁度良い加減、みたいなニュアンスだろう。

健康で言うと「めちゃくちゃ健康」でも確かに嬉しい。僕だって、食べ物には気を付けているし、睡眠時間も取っている。運動もちょくちょくしているし、ストレスを溜めないように工夫もしている。
しかし、それでも現実的に毎日がめちゃくちゃ健康であることは難しい。というのも、体にはその日によって調子のよさにバラつきがあり、色んな外的な要素も関係してくる。だから調子が良くない日だって普通にある。注意していても風邪を引くこともあるかもしれない。

もし仮に僕が「人は毎日めちゃくちゃ健康であるべきだ」と標榜したとしたら、結構疲れると思う。掲げたものに対して、現実が追いつかないからである。「何故今日は筋肉痛なんだ!」と腹を立ててもきりが無い。そんな時に「まあまあ健康」を意識していれば、「こういう日もあるから気を付けよう」ぐらいに思えるようになる。

自分にとって重荷にならない、は結構大切ですね。

2017年5月19日金曜日

分業

自分の体内で働く自分を100人としたときに、どういう風に働いているんだろう。
と今少し思った。

2017年5月16日火曜日

静寂に聞く

基本的に僕は静かな空間が好きで、生活する中でもなるべく大きな音からは遠ざかりたい、静寂を感じる空間に居たいと思っている。人によって「静かな状況」とはどういうものか、抱くイメージが異なるかもしれないが、ここでは単に、音が小さい、耳に入ってくる音の数が少ない、といった意味を指す。

日常の中で、静かな場所、騒がしい場所とはどういうところだろうか。適当に書き出してみた。

静かな場所。
イメージとしては「人為的な大きな音が少なく、騒音の発生源などから離れている」ような場所だろうか。例えば、都市部でも一戸建ての多い住宅地だと、昼も夜も静かなことが多いと感じる。車の通りは一日を通して少なく、人通りが多くなることもそれほどない。
だだっ広い場所も静かなことが多い。具体的には、草原とか、貯水池とか、公園とか霊園とかである。個人的にオススメなのは霊園だ。お墓の近くは敬遠する人もいて、家賃も安かったりする。騒音になる原因がほとんどないので、本当に静かで過ごしやすい。自分はかつて2度、お墓の近くの家に住んだことがある。
学校のように、昼は喧騒がするが、夜になるとめちゃくちゃ静か、という場所もある。神社やお寺の近くも、静かなことが多い、たまに夜は悪いにいちゃんのたまり場になってたりするようだが…。防音の設備がある部屋なども、静かな場所と言える。地下にあれば相当静かな環境を作れるだろう。


騒音の多い場所。
イメージとしては、「騒音の発生源が近くにあり、一日中大きな音が発生する可能性がある」ような場所だろうか。そう考えると都市部に多い。例えば、幹線道路の傍。深夜でも大型トラックやタクシーが頻繁に通るから、車の走行音が絶えにくい。それと総合病院の近く、救急車のサイレンがひっきりなしという病院もある。工場の近くとかも騒音が大きくなりがちだ、大型の車が行きかうとか、工場内の機械の稼働音等が昼夜問わず聞こえるような場所もある。あとは鉄道の線路の近く。言うまでもなく、列車の走行音が発生する。
自分はかつて、飛行機の航路の真下にあたる土地に住んでいたことがある。これはもう事前に調べるしかないかもしれない。割と離発着の多い空港だったので、ひっきりなしに飛行機の音が聞こえてくる。よく何年も耐えたものである。
また、プロ野球が行われる球場近くに住んでいたこともある。夜になると試合があるから、当然歓声も聞こえてくる。聞こえる応援歌によって、誰がバッターボックスに立っているかも分かるぐらいだ。よく何年も耐えたものである。
ここまでは、人為的な騒音だが、自然の中にも大きな音はある。例えば波の音だ。親戚の家が海の目の前なのだが、もちろん一日中波が押し寄せる音が聞こえる。風情があると言えばあるが、これが慣れないとなかなかつらい。
あと、田んぼの近くの家だと、夏場はカエルの鳴き声でとても騒がしい。これも慣れれば気にならないかもしれない。
森の中でも、例えば鳥のさえずりなどもある。これが何羽も同時に鳴いていれば、結構騒がしいと感じる。風情とは、心に余裕がある時にこそ感じ取れるものだと思う。
以上のような、騒音が発生するような場所は、引っ越しの際に結構調べたりする。

生活する中で、音はかならず発生するものだ。賑やかなのが好きという人も多いと思うが、僕の場合は、作業をするときは静かな方が良いので、やはり静かな空間を選びたい。


そういえば、10年ほど前に青森県の十和田湖に言った時、日の出前に外に出て、湖畔でぼーっとしていると、あまりの静寂に感動したことがある。もしいつか郊外に住むとしたら、こういった、静かなところに引っ越したいと思う。

2017年5月13日土曜日

主語サイズ変更の願望

主語のサイズを変更して話す行為は、僕の中では、会話におけるルール違反みたいな認識をしている。「個人の願望」が「不特定多数の意見」であるかのようにすり替わってしまう行為になりやすいからである。

例えば、

「私はドーナッツが好きなので、ドーナッツ屋が近所にできてほしいなあ」

という「個人の願望」を、

「近隣の住民たちからドーナッツが好きという声が出ている、なのでドーナッツ屋を近所に作るべきだ」

と「不特定多数の意見」っぽく置き換えてしまうような行為である。Twitter等で見かけたことはないだろうか?
この場合、後の文の「近隣の住民」には恐らく「私」が含まれているので、間違ってはいないかもしれないが誤解を招きかねない。ただの願望をもっともらしい「意見」であるかのように変更し、主語を拡大させることによって、自分の望ましい方向へ持って行こうとしているようだ。

これは故意かどうかはともかく、他人への伝わり方の問題だ。こういう話があると「そんなにドーナツ食べたきゃ、自分のチカラで探せばいいのに…」と思ってしまう。

上記は極端な例かもしれないが、現実に発生しているようなクレームの内容とかをよくよく読んでみると、「それはアナタの願望なだけでは?」みたいなことをよくみかける。願望成就のために主語の規模を変えてしまうのは、会話に歪みを発生させてしまうかもしれない。
願望なら「私はこう考えているので、こうしてほしい」と書けばいいのだ。考えを持って書けば少なくとも「個人の意見」となる。
そもそも、願望と意見は別のものだ。その認識は忘れずにいたい。

2017年5月8日月曜日

遠回しおつりメモ

「千円札が不足しています」

と書かれたメモが、飲食店やコンビニのレジの近くに貼られているのをよく見かける。うちの近所の喫茶店では、いつもこのメモが貼られている。そのお店では、万年、千円札が不足している状態なのだろうか。

「千円札が足りていない状態」とはどういうことか。いつもそのメモ書きがお店に貼ってあるとしたら、不足する理由があると想像できる。千円札が減る状況とはつまり、お店側がおつりで多くの千円札を渡すということだから、おのずとお客さんの中に「五千円札や一万円札でお会計する人が多い」ことになる。

この文言がお客さんに対して伝えたいメッセージとしては「少額な金額で、あまり一万円では出さないでね」とか、「両替目的は控えてね」という感じだろうか。実際レジ打ちで、大きな額のおつりが出る万札を出されると困ることがある。ヒューマンエラーも発生するかもしれない。お店のリスク回避として、そういうメモが張られている可能性はある。

「千円札と五千円札が不足しています」と書かれたメモも見たことがある。これは、お会計が四千円前後になることが多いお店で、一万円札で支払われると、五千円札と端数でおつりが発生することが多いお店なのかもしれない。真相をお店に確かめたわけではないけれど、そういう意図が込められてるのかなあと思う。

また、優しい人であれば、そのメッセージをそのまま受け取って、千円札で払ってくれるお客さんもいるかもしれない。その場合は、お店にとっても、まあありがたいと言える。

もしかするとお店によって動機は異なるかもしれないけど、「その言葉の奥にある目的」のようなものを感じる言葉って、自分の知らないところでも、いっぱいあるのかもと思ったのでした。

2017年5月2日火曜日

幸ある街道を進む

行動は思考の結果の数々だ。

張り巡らされた思考の道は無数に広がって、幾つかの点に到達している。
その点は色がついていたり、サイズが違ったり、形が違っていたりする。

キミが望んだものは、未来にその通りになる。例えば、「耳かきがほしい」と望めば、そう遠くない未来にキミは耳かきが手に入る可能性が高い。もう少し簡単な物事でもいい。「その通りになる」の精度は個人差があるかもしれない。

しかし、結果に行き着くためには思考と行動が必ず伴う。例え耳かきひとつの話でも、到達するための幾つかの点がきっと存在する。

点の精度が高ければ、きっとキミが望ましい場所に到達できる可能性は高くなる。
幸ある街道を進もう。

2017年3月30日木曜日

ちょっとした夢

5歳ぐらいの頃からの、ちょっとした夢がある。
当時自分は、親に連れられてよく大阪の百貨店に行ってた。そこの鉄道模型コーナー(Nゲージ)を見るのが凄く好きだったのだ。いつか鉄道模型のジオラマを作りたいと今も心の片隅で考えている。とりあえずスペースの確保が先だね笑

2017年2月28日火曜日

沈黙が騒ぐ

自分は騒音が苦手なので、作業はできるだけ静かな環境が望ましい。作業しながら音楽をかけることは少ないし、ラジオなども聞かない。
理由は、自分の頭の中で音を鳴らしているからで、脳内の音を再生するためには周囲の雑音は邪魔になるのだ。また、撮影の場合音合わせの作業となることも多いので、やはりその場合も作業用BGMは流せない。

ところで、脳内における音の自己再生が、寝る前にも継続している状態はちょっと厄介だ。横になっていても映像が頭の中で流れ続けていたり音が響いていると、寝るどころではない。コンテで描いていたキャラがずっと喋っていたり、モンスターと闘っていたりする。こういうときは神経が高ぶっているので、ちゃんとリセットをかけなければいけない。自分の場合は座禅を組んだりする。ほとんど自己流だが、これが結構いいのだ。とりあえず10分ほど座禅を組み、静かにしてみよう。呼吸を落ち着ければ、そのうち、ちゃんとした沈黙がやってくる。穏やかな夜を。

2017年2月27日月曜日

変化更新

日々、色んな情報が右から左に流れていく中で、一つ感じていることを言葉にしてみる。

「かつては、こういうことがまかり通っていたが、それが露わになったことで、それが通用しなくなった」
「こういう事は起こりえないと思われていたが、実は条件が整えば案外発生する可能性はある。」

これらは、ある種の環境の変化によって、その歪を見た人たちがこじ開けてゆくことによって、実はこうだった、みたいな感じで生じているように思う。今後たぶん、色んなところで発生していく可能性がある。

かつて「環境」には様々な垣根が存在し、かつ、それらは、距離、人、時間、場所、学力、お金、知識などの乖離によって存在すら知ることができないものだった。今はそれはどちらかというと、崩れていく様も見られる。常に変化し続けているのだ、という感度が必要だと思う。

感度や視野には個人差もあるし、日常、ある特定を場所を見続ける生活をしている人もいる。ただ、少し首を振ってみると、こんなに変わっていたの?みたいなことは珍しくない。

色んな現象は常に発生して、それは現実に変化をもたらす、僕らがボーっとしていても、毎日どこかで変化は起きているし、情報も更新される。

2017年2月9日木曜日

選択肢、という話

例えば、死にたいという願望は否定しちゃいけなくて、だからといって自ら命を絶つというのは個人的には「勿体ない」と思う。
健康であればいつでも死ぬことができるが、不健康だと、いつでも死ねるとは限らない。不健康とは、生も死も若干不自由になる。そう言う意味で不健康なのだ。難しいでしょうか?

僕は生きてる中でやりたいことが多すぎて、おそらく生前に全て消化することは難しいだろうとは思う。今、やりたいことやりましょ。

2017年1月8日日曜日

反射と鍵

道を歩いている時、どこか近くで車のクラクションが鳴ると、びっくりして音の発生した方を振り返る。これは、けたたましい音にびっくりして振り返っただけであり、車の様子がカッコかったからでもなく、クラクション音が心地よかったからでもない。単なる人の反射である。聞こえたから振り返ったのだ。

映像でも似たようなことがあって、例えば真っ暗な画面から明るい画面に切り替わると見ている人は目がくらむ。見る側からすると受け身な反応であり反射のひとつだ。光がびっくりするほど美しかったわけではない。感動ではなく単なるリアクションであって、その表現自体が人の心を揺さぶったわけではない。

創作は、人をびっくりさせるもの、意外な何かを見せるもの、という面がある。そのため、とにかく見る人に反射させよう、という創作物もある。それが悪いわけではないし、まず見てもらうためには注目したくなるような仕掛けを施す必要がある。ただ、見る側にあまりにも何もさせない作品だと、そのうち飽きられてしまう。クラクション音も、2回、3回と鳴らされたら振り向かなくなる人もいるかもしれない。反射を活用する時、同じ手はそう何度も通じないのが弱点だ。

一方、絵画などを見るときは、見る側は自発的にならざるを得ない(Twitter等に上がるイラストとかでも、注目している時間はきっと自発的になると思う)。絵画は基本的に動かないし、終わりが無い。終わらせるとしたら見る人がその場から立ち去るだけだ。
同じ絵を見るにしても、人によって感じるポイントは異なる。それは、絵と自分が向き合った時、自分の中で生成された感動ポイントがあって、感動ポイントに触れることで、作品の良し悪しや、発生した感情を認知する。

感動は見る側にとって自発的なものであり、見る人にとって「良い」と感じる素養があるから、心が動く。作り手は見る人の心を直截動かすことはできない。ただ、心を動かすためのキッカケ、鍵っぽいものを渡すことはできる。感動の為の鍵を使うかどうかは受け手次第だと自分は考えている。

2017年1月3日火曜日

2017年です

あけましておめでとうございます。熊本です。
本年も仕事や創作活動に尽力して突き進んでいこうと思います。

今日は語彙に関するお話です。
僕は会社員をやっていた頃から、自分がつかう言葉には気を付けてきましたが、
言葉に関連するものに語彙、というものがあります。
語彙とは「普段あらゆる環境で自分が使用している言葉たちのグループ」
みたいな意味合いで僕は認知しています。「言葉群」みたいなものでしょうか。
僕が映像制作者として振舞うときの語彙には幾つかのカタカナ語が入ります。
例えば「レイアウト」という言葉を頻繁に使いますが、
これは画面の中の人物やものの配置、見栄え(の良さ)などを意味しています。
そして、そのレイアウトに付随するように、コントラスト、画角、コントラポスト、フレーム
などの関連する言葉がでてきます。こういった、共通性のある環境やグループに
おける言葉のひと固まりを語彙と言っているのです。
語彙に優れている人やそういう状況を「語彙力がある」と言ったりします。
僕はまだまだ語彙力がある、という段階にはなかなか行きつけておりませんが、もし語彙力があると、適切な場面で適切な言葉が出やすくなり、コミュニケーションの
選択範囲が広がる印象があります。すくなくとも「あれ」「それ」としか言えないよりは
ずっと会話が続くでしょうし、人に説明をするときにも有効に働くでしょう。
自分にとっての語彙とは、語彙力とは何か、
正月はそんなことをちょっと考えておりました。

本年も、宜しくお願いします。